鈴木式織機製作所からSUZUKIへ!3兆円企業に押し上げた男たち

SUZUKIは2020年で創業から100周年という大きな節目を迎えます。立ち上げから現在に至るまで創業家一族が経営の中枢を担い、その実績は四輪車の世界販売台数では第10位、二輪車では第8位という世界でも有数の歴史ある名門企業です。今回は売上高3兆円という大きな企業へ押し上げた、男たちの話をしていきます。創業者である鈴木道雄氏のモノづくりの精神は現代へと受け継がれ、私たちの生活を便利で快適なものにしてくれています。

SUZUKIの創始者 鈴木道雄

鈴木道雄氏は1887年2月18日静岡県浜名郡芳川村に生まれ、1901年には大工に弟子入りします。しかし、日露戦争が勃発し、建築の仕事がほとんどなくなってしまったため、親方が織機製作へと転向したことで、道雄氏も織機の製作に携わっていきます。織機とは、糸を織物へと織り上げる機械のことで、その当時、織機の需要が高まりつつありました。そこで1909年にはSUZUKIの前身の会社である鈴木式織機製作所を立ち上げます。そして、1920年には株式会社として鈴木式織機株式会社を設立します。

モノづくり精神の原点

画像引用:https://www.suzuki-rekishikan.jp/facility/

道雄氏は常にお客様の立場に立って発想し、製品を使う人の評価や意見を丹念にとりいれ、より良いものを作成することに心血を注いでいました。その副産物とでも言いましょうか、120以上もの特許(実用新案)を取得した発明家でもあります。織機製作は次第に木製から金属性自動織機へとシフトしていき、その生産を通して後の4輪車製造に必要な精密機械の加工技術を蓄積していくことになります。

将来を予見しチャンスを見出す

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道雄氏は順調に織機の販路を拡大していきますが、耐久商品である織機の将来的な展望が見えないことを予見します。それが後の自動車産業進出へのチャンスを見出していくきっかけにもなりました。その契機となったのが、1952年に自転車の補助エンジンとして発売したバイクモーター「パワーフリー号」のヒットでした。次ぐ1953年には排気量60ccのダイヤモンドフリーの開発生産を行い、上々の滑り出しでまずは二輪車製造へと乗り出していきます。ちなみに、このパワーフリー号の元となる発想を生み出したのが、後の二代目社長鈴木俊三氏でした。

自動車製造への熱い想い

道雄氏は戦前からの自動車製造に対する熱い想いがあり、その情熱は冷めることなく内に抱いていました。周囲から反対の声が湧き上がったときも「お客様が欲しがっているものならどんなことをしてでも応えろ。頑張ればできるものだ」というモノづくりの精神を体現する形で自動車製造を推し進めていきます。否定的な立場だった俊三氏もその必要性を理解し道雄氏をサポートしていくことになります。

SUZUKIの初の軽自動車スズライト

画像引用:https://www.suzuki.co.jp/about/museum/

1954年鈴木式織機株式会社を鈴木自動車工業株式会社に改編させ、自動車製造進出への決意をいよいよ固めていきます。1955年に発売されたのが、道雄氏の熱い想いの結晶といっても過言でない、SUZUKI初の軽自動車「スズライト」です。この「スズライト」は、2008年に歴史に残る名車と評価され日本自動車殿堂の歴史遺産車に選ばれました。製造にかかわった稲川誠一氏も日本自動車殿堂の殿堂者として認定されています。興味深いことに、開発に携わった稲川氏を含めた3名はなんと、自動車免許を持っていませんでした。

脈々と引き継がれるモノづくりの精神

道雄氏は長年の想いを形に残し、1957年2月鈴木自動車工業社長の地位を娘婿の鈴木俊三氏に譲ります。1973年5月には道雄氏の三女と結婚した鈴木實次治氏が俊三氏の会長就任にともない社長に就くことになります。しかし、實治郎氏は1978年6月に病気を理由に社長を辞任し、俊三氏の長女の婿養子である鈴木修氏が社長に就任します。

修氏の社長就任後初のモデル「アルト」

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修氏が社長就任した当時は、排ガス規制対策と550ccへの規格移行期が重なり軽自動車は大きな変化を求められていましたが、メーカー各社の対応が遅れていた混乱の時代でした。そんな時期であったにも関わらず、1979年に発売された「アルト」は軽ボンネットバンのブームに乗って大ヒットすることになります。それ以降もモデルチェンジを重ね、2016年には国内累計販売台数がSUZUKI車で初の500万台を達成するほどの人気シリーズへと成長していきます。

「アルト」大ヒットの秘密

大ヒットとなった「初代アルト」は綿密な戦略の元に設計・生産・販売されたものでした。当時の日本では、軽乗用車には15%超の物品税が課されていましたが、商用車では物品税が非課税でした。そこに目をつけ「アルト」ではこの税制を利用した合法的な節税を行います。荷台スペースを後部座席のスペースと同等以上にするなどして軽商用車として売り出したのでした。さらに市販価格も45万円程度を目指し、開発部門の責任者であった稲川誠一ら技術陣はコストを落とすために、後部座席の背板にはべニア板を使い、ウインドウウォッシャーは電動式が主流になりつつある中で手押しポンプ式を採用し、助手席の鍵穴は省略するという徹底ぶりでした。この当時の軽自動車は新車で60万円を超える価格帯で、さらに物品税を上乗せすると、目標とした価格がどれだけ大変なものであったか想像に難くありません。

初心を備えつつも進化を続けるSUZUKI

このアルトはモデルチェンジを行い続けて8代目のモデルとして現在も愛されています。8代目では「原点回帰」という名のもとに丸みを帯びたスタイリングから初代モデルのテイストを持つエッジの効いたデザインへと変化をとげました。

SUZUKIの売り上げを押し上げた海外戦略

SUZUKIの売り上げ増加の要因として外せないのが海外戦略です。1981年2月インド政府との合弁会社「マルチ・ウドヨグ」を設立し2002年には子会社化しています。2007年に社名変更され「マルチ・スズキ」となりました。インドにおける自動車販売のシェアは2017年には50.2%にまで拡大しています。1983年12月から発売されたマルチ・800はアルトをベースモデルとして現地生産、低価格で発売し、爆発的な人気を博しインドの小型車市場を寡占状態にしました。

大企業をも驚かせた「アルト」

アルトの大成功に加え、1981年にはゼネラルモーターズとの業務提携をすすめ、SUZUKIは一躍脚光を浴びることになります。1980年前後はガソリンの価格が高騰した時代であり、大きなクルマを作っていたアメリカのメーカーも小型車を作る必要に迫られていました。その中でも最大手のゼネラルモーターズも例外ではなく、世界の小型車を徹底的に分解・研究して小型車開発を進めていました。その際に研究対象の1つであったアルトの設計を見て驚嘆し、SUZUKIとの提携を決めたとも言われています。ゼネラルモーターズと提携関係を持った自動車メーカーで唯一オファーを受けたのはSUZUKIだけで、その当時におけるアルトの設計がいかに素晴らしいものであったかが分かります。さらに、1990年代初めにはハンガリーへと工場を進出させ欧州戦略の拠点としました。

3兆円企業へ

創業者鈴木道雄氏から引き継がれたモノづくり精神を礎としたSUZUKIは2007年には3兆円企業へと大きな成長をとげました。そこに至る過程で、修氏は2000年6月から会長を務め、初の創業家以外からの社長、戸田昌男氏が誕生します。戸田昌男氏、津田紘氏と2代続き、2008年には再び修氏が会長兼社長として就任しています。そして、2015年6月には創業者鈴木道雄氏以来、初の直系親族である修氏の長男鈴木俊宏氏が社長に就任しています。

100周年、そして次の100年へ

画像引用:https://www.suzuki.co.jp/ir/message/

創業から100年、鈴木道雄氏の「お客様が欲しがっているものなら、どんなことをしてでも応えろ。頑張ればできるものだ」という言葉に宿るモノづくりの精神を脈々と引継いできた結果、世界でも有数の企業へと発展してきました。SUZUKIの社是で「消費者の立場になって価値ある製品を作ろう」を第一に掲げていることからも、モノづくりの精神を大切にしていることが分かります。SUZUKIはこれからの100年も私たちの期待に応えてくれる製品を作り続けてくれることでしょう。

 

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