BMWの復興を支えた小さな名車、イセッタをご存知ですか?

第二次世界大戦後の復興期、苦境に陥っていたBMW四輪車事業を救ったのは一台の愛らしいマイクロカー、イセッタでした。もしこのクルマがなければBMWは四輪事業を継続できたかどうかも分かりません。今も本国ドイツで熱狂的な愛好者がいるBMWの小さな名車、イセッタについて解説していきます。

第二次世界大戦後、経営危機に陥ったBMW

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第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツには過酷な運命が待っていました。領土を25%も失った上、西欧諸国と旧ソ連の対立が深まり、最終的には東西ドイツに分断されてしまったのです。BMWも戦時中の戦闘機などの武器生産を理由に連合国から3年間の操業停止を命ぜられます。

1948年になってやっと事業を再開しますが、東ドイツ領内にあった工場は東ドイツに没収されて国営企業となっており、生産設備も縮小した中でスタートせざるを得ませんでした。当初は二輪車の生産から事業を始め、1951年には念願の四輪事業も再開しました。再開後、初めて発売したのがBMW 501というクルマでした。戦前に開発された旧式のエンジンとはいえ、直列6気筒2Lのエンジンを搭載したBMWは高級車らしい仕上がりで操業停止によるハンデを感じさせないクルマとなっていました。

しかし当時は高級車のマーケットでメルセデスベンツが圧倒的なシェアを占めており、その牙城を崩すのは並大抵のことではなく、商業的にも苦戦を強いられます。何より、敗戦から数年しかたっていないドイツでは高級車のマーケット自体が限られたものであったことからBMWは深刻な経営危機に陥ってしまうことになります。

戦後、ドイツの国民が求めていたものは手の届かない高級車ではなく、お金をためればなんとか手に入れることができる小型の大衆車でした。

とはいえ、生産設備も縮小し、当時ノウハウをもたないBMWにとって新たな小型車を開発することは至難の業だったことは想像に難しくないでしょう。

イタリア生まれのイセッタをBMWがライセンス生産

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大型の高級車しかラインナップにないBMWにとって願ってもない話が舞い込みます。イタリアのイソ社と同社が開発したマイクロカー、イセッタのライセンス生産の話が持ち上がったのです。イセッタはイソ社が1953年のトリノショーに出品したユニークな超小型車です。
全長は2.4m、全幅は1.4mしかありませんが、大人二人を前席に座らせ、後ろには子ども一人なら乗り込めるスペースを確保しています。狭いながらも小さな荷物とスペアタイヤを置けるだけのスペースも用意されていました。

エンジンはフロントではなくリアタイヤの前に置き、タイヤはチェーンで駆動するなどクルマというよりもどちらかと言えばスクーターに雨風をしのぐためのキャビンをかぶせたような構造といったほうが近いかもしれません。通常のクルマではボディサイドにあるはずのドアはなく、フロント部分がまるごと右側にがばっと開くことでドライバーが乗り込みます。驚くことにステアリングホイールや計器類もドアと一緒に外側に開くので、乗り降りは意外に難しくなかったようです。

イソ社はクルマを手掛ける以前は家電製品、それも冷蔵庫を製造していたので冷蔵庫の扉を参考にしたと言われていますが、確かに丸みを帯びたフロントマスクはレトロな冷蔵庫のような印象もあります。

このように、イセッタはいわゆるクルマの定石をことごとく破った独創的なパッケージングで人々を驚かせました。

しかし現地イタリアでは少し上のクラスになりますが、より普通のクルマに近い500㏄のフィアット・トポリーノが絶大な人気を得ていたことに加え、イソ社自身がイセッタよりも本格的なスポーツカーの開発に力を注ぎイセッタの販売にさほど熱心ではなかったことからイソ社によるイセッタの生産は1955年までの1000台程度にとどまりました。

その代わりにイソ社は製造権を各メーカーに譲渡するライセンス契約について各国のメーカーに熱心に営業したのです。大衆車の製造を検討していたがノウハウのなかったBMWにとってイソ社からの提案はまさに渡りに船だったのです。しかもイソ社ではライセンス契約の締結にあたり生産設備までBMWに供与したとのことなので、敗戦により生産設備を縮小させられたBMWにとっては願ったりかなったりの契約だったのではないでしょうか。

ドイツ人に愛されたイセッタ

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「161,728台」、これはBMWが製造したBMWイセッタの台数です。本家イセッタの台数よりもはるかに多いことから、イセッタをBMWオリジナルだと誤解している人がいても不思議ではないでしょう。

ライセンス生産といってもBMWならではのモディファイを行うことでクルマとしての基本性能はオリジナルよりもはるかに向上しています。

例えばエンジンですが、オリジナルでは単気筒2サイクルで出力もわずか9.5馬力に過ぎませんでしたが、BMWイセッタでは実績があり信頼性も高い、最高出力12馬力を発揮するモーターサイクル用の単気筒4サイクルエンジンが採用されました。

パワー自体は大したことがないにも関わらず車重が360㎏しかなかったので、最高速度は85km/hまで伸びました。さすがにアウトバーンは無理でも街中の使用であれば十分実用に足りたのでしょう。

価格は1台2580マルク(約17万6000円)と、もちろんまだまだ敗戦後の混乱期にあったドイツでは高価には違いなかったでしょうが、庶民でも頑張ればなんとか手が届く価格でした。
スエズ危機を背景にしたエネルギー危機も追い風となり、ガソリン価格の高騰により燃費の良い小型車へのニーズが高まったことからイセッタは順調に販売台数を増やしていきます。排気量を300㏄に拡大したイセッタ300を追加したこともあり、1957年には販売のピークを迎えます。この後、ドイツでも経済が復活してきたことで所得が増え、庶民のニーズがマイクロカーからより快適な「普通のクルマ」に移っていったことから徐々にイセッタは販売台数を落としていきます。

BMWはイセッタの生産で事業の安定化を図りながら1959年にリアエンジンの小型乗用車700を発売します。700はイセッタの発展バージョンで4人乗りのイセッタ600をベースにして一部の部品を共用化し、モノコックボディに通常のドアを備えたセダンスタイルを採用していました。この700が好評を得ることでBMWの業績が回復し、さらに1962年に現在の3シリーズの祖とも言える小型乗用車1500を発売して好評を得たことで自動車メーカーとして安定した地位を構築していったのです。

もしイセッタの生産がなかったならば700の開発にもこぎつけられず、そこでBMWの歴史も終わっていた可能性もあります。一時期はメルセデスベンツに吸収合併されるという話も真剣に取りざたされるほどだったので、BMWにとってイセッタの生産が果たした役割は非常に大きかったと言えるのではないでしょうか。

そして戦後ドイツの復興期を支えたクルマとして生産中止から60年を経た今でもドイツでは毎年イセッタファンが集まるフェスティバルが開催されるほど愛される存在となっています。

自由への逃走!イセッタでベルリンの壁を越えろ

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BMWイセッタが冷戦下のベルリンで自由への逃走の手段として使われたエピソードをご存知でしょうか。

ベルリンを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊してから既に30年が経ちました。ベルリンの壁は当初往来が自由だったベルリン市内を経由して西側諸国への逃亡を防止するために1961年に東ドイツ政府によって突如構築されたもので、東西冷戦の象徴でした。それまでは自由に往来が可能だったベルリン市内が突如東西に分断されたことで家族や友人とも離れ離れになってしまうことも少なくありませんでした。

当時、西ベルリンで観光ガイドをしていたクラウス・ギュンター・ヤコビもその一人です。ヤコビは親友のマンフレッドを東ベルリンから救出する手段としてBMWイセッタを選びました。普通のクルマでは検問で人が隠れているかどうか徹底的に調べ上げられますが、イセッタはあまりにも小さく、まさか人が隠れて乗っているとは夢に思わないので、このミッションには最適だとヤコビは考えたのです。

ヤコビはイセッタに人を隠し乗せるために様々な改修を施します。右後輪の近くに配置されたエンジンからはエアフィルターなどを取り外します。左後輪側にあったリアシートとスペアタイヤを外し、マフラーを曲げ、さらに13Lのガソリンタンクを外して2Lほどの燃料が入る小型容器につけ替えます。

こうして相当窮屈な姿勢を強いられるものの大人がなんとか横になって膝を抱えれば乗ることができるだけの空間を創り出しました。さらに体重で後部が沈み込んでしまうので、リアフェンダーをカットして地面にフェンダーが当たってしまうのを防ぎました。

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ベルリンの壁博物館に展示されている改造イセッタのレプリカに乗った現在のヤコビ

幸運なことにヤコビはクルマのメカニックになることを目指して3年間教育を受けており、さらにその後も継続してトレーニングしていたのでこういった改修も難しいことではなかったのでしょう。

そして1963年5月23日夜、ヤコビは作戦を決行します。イセッタは後部にマンフレッドを隠して国境検問所に近づきます。検問所の兵士はイセッタをくまなくチェックしていきます。わずか数㎜の厚さのパネルの内側で息をひそめていたマンフレッドには時間が永遠のように感じられたのではないでしょうか。

そしてイセッタは無事に国境検問所を抜け、西ベルリンへ到着―その時、ガソリンはわずか2、3滴しか残っていなかったと言います。

この後、同じ方法で8人の友人の救出に成功します。ベルリンの壁を越えようとして多くの人が失敗し、場合によっては兵士に射殺されることもあったことを考えれば驚異的と言えるのではないでしょうか。

BMWではベルリンの壁崩壊から30年を記念してこのイセッタのストーリーを短編フィルム「The Small Escape」にして公式Youtubeチャンネルにアップしています。

The Small Escape.


フィルムではヤコビ自身が運転していることになっていますが、実際は西ベルリン在住のヤコブは東ベルリンへの往来ができず(東ドイツは西ベルリンを西ドイツ領と認めていなかった)、運転を他人に依頼していたなど、史実と一部異なる部分もありますが、東西冷戦下の緊迫した雰囲気が伝わってくる作品なのでぜひご覧ください。

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